학술논문

통신사행록의 글쓰기 방식을 통해 본 富士山 논쟁 재고
Revisiting the Mt. Fuji Debate Through the Way of Writing of Records by the Envoys to Japan
통신사행록의 글쓰기 방식을 통해 본 부사산 논쟁 재고
Document Type
Article
Text
Source
조선통신사연구, 12/31/2016, Vol. 22, p. 1-35
Subject
Envoys
Records by the Envoys to Japan
Mt. Fuji
Mt. Geumgang
Fuji Superiority Dispute
Way of Writing
Language
Korean
ISSN
1975-9665
Abstract
日本の代表的な名山であり、江戸の鎭山であった富士山は、早くから通 信使行員の関心の対象になった。直接富士山の見た通信使行員たちは、 その絶景に視線を取られ、富士山を見た感想を詩で表現した。又、両国の 文士が筆談を交わしながら詩を唱酬する過程で富士山を詩題にしたり言及す ることもあった。朝鮮後期通信使にとって富士山は火山活動によって作られた 外見と積もった雪が溶けなくて白く見える山の色は探求の対象であった。その 独特な雰囲気は仙界そのものであった。それで通信使行員たちは自分達の 目の前に広げられた富士山の絶景を時には仙景に、時には祖国の山川に準 えて多彩な表現で詩文を残した。それにもかかわらず今まで我々は朝鮮と日本 の文士筆談唱和で交換した自国優位の論争がまるで、通信使が富士山を眺 めたことのすべてであるように判断した。また、朝鮮後期通信氏が富士山を単 純に自然物に見たか、そうでなければ仙界に認識したかの二分法で裁断し てみた。それだから富士山を言及した朝鮮後期通信使の詩は、日記で自国 優位の感情を表す詩語や単語を探して、それに意味を付与し評価する傾向 が多い。言い換えれば全体的な脈略ではなく、特定な単語に注目して通信 使の意識を把握しようとしたという意味である。また、表面的では通信使の全 般的ま富士山の認識を扱っているその他論議にも「金剛山ー富士山の愚劣 論争」を基底とした場合が大部分である。しかし、実際に通信使行録を 探ってみたら両国文士の間に愚劣論争が極明に現われる事例は多くない。 第1次(1607)~第二字(1643)通信使行員は日本使行び路程で見た富士 山を「天下の壮観」、「絵のなかの風景」だと言い激賞した。1636年丙子使 行の時、副使金世濂は富士山を主題に詩を読みながら仙鶴, 丹丘, 蓬萊 など仙境を連想させる詩語を配置して富士山の仙境的面貌を現わすことに集 中した。1643年癸未使行の副使趙絅は富士山を三神山また、三神山と近 接したところだと認識しながら天上の白玉京に例えた。更に朝鮮後期、通信 使は江戸の発展をその地勢と関連させ言及したが、戦国時代の混乱の中で その命脈を維持して関白になることができたのは、容易に近づくことができない ほど雄壮な富士山が江戸の鎭山であったからだと判断したのである。このよう に朝鮮後期通信使にとって富士山は仙境であって、一国に永続性をもたらす 霊山のように思われた。 しかし1655年派遣された乙未使行の從使官南龍翼が富士山を金剛山に 詳細に比較しながら「金剛山ー富士山愚劣論争」が始まった。南龍翼は すでに金剛山という三神山を見たから富士山を見ても驚く兒っとなく寧ろ卑下 すると表現した。このような富士山を卑下することは日本文士の反発を呼び起 こした。南龍翼の文章に自尊心に傷つけられた日本の僧侶である中達と紹 柏は金剛山より富士山がもっと優れたという詩を書いた。これに続いて南龍翼 はまた次韻して金剛山と富士山を囲んだ両国の文士の対決は深化された。 しかし、始めてから南龍翼が富士山に対して否定的に描写したのではない。 彼の使行日記を見たら富士山を見る前から南龍翼は富士山に対した期待を 隠さなかった。船のなかで富士山を見た南龍翼は、遠いところからもその形 態が見えるから、その大きさが分かるようだと感嘆した。また近づいて富士山 を見てからはその景色がまるで生きている絵のようだと記録した。また帰りなが ら見た富士山に対しては「玉芙蓉」だと言って激賞した。また中達․紹柏と 愚劣論争を行った当日にも、南龍翼は富士山を神霊して奇異したと評した。 ところが、急に南龍翼は富士山に対して否定的な認識を表出して日本文 士との葛藤を呼び起こした。これに対して既存研究では、日本の政治的意 図によって日光山にある徳川家康の願堂東照宮だで帰ってきたにも拘わらず 徳川家光の願堂大猷院まで参拝を強要したら南龍翼は小中和意識が詩文に発現されたからであると言った。 ところが、仙境だと認識した文章は南龍翼 自ら富士山を見てかいたものであり、否定的認識が現われたのは日本文士 との唱酬する状況であったことを注目する必要がある。「金剛山ー富士山愚 劣論争」が起きた視点を見たらおもに日本文士が富士山に対する自分の詩 に次韻をつけてくれることを要求したり、朝鮮の名山と比較して優越さを現わす 時であった。南龍翼もまた両国文士の論争について「中達․紹柏二人のを 僧が続いて詩を作って自慢する気色があるので、次韻を続けて気を折ってあ げった。」と説明した。この点は18世紀初、筆談状況にもよく現われていた。 筆談を交わした日本文士が金剛山に対して問い、これに通信使が応対して 金剛山の美しさを表現したら、日本文士がこれを認定しなかったり、富士山 が金剛山よりもっと優越すると反駁しながら論争が始まったりした。言い換えれ ば愚劣論争を起こさせたのは通信使ではなく日本人であったのである。これ に対して雨森芳洲は愚劣論争の原因を日本人達の過度な自尊心とい好勝 心のためだと言った。 一方、既存の研究であh17世紀中半に始まった愚劣論争が仙境として の富士山に対する懐疑tという形に変貌して18世紀まで続けられたと見た。 この研究では日本文士の優越感の表出が自尊心をまもろうとする方法の一つ で続けられたと見える。しかし、通信使たちは日本人の要請があるときはいつ も、詩文․書画․筆談などで応じて一生懸命に受容した。日本文士たちは 我が文士たちの能力に自ら謙遜して、最大の敬意を表す方式として詩文唱 和が成し遂げられた。また、通信使は自分たちが書いた朝日外交に負担と して作用するようになることを心配して、通信使録の著述を制約することにし た。南龍翼と日本文士の葛藤以後、対馬は注意項目全五個および要求 思考を壬戌使行(1682)の三使に告知した。けれども、この注意状況の最後 の項目が丁度両国文士の筆談唱和に関する内容であった。対馬では詩文 などを唱酬する時、通信使が日本に嫌われる文字は礼儀ではないから言わ ないように注意してくれるように要求された。1711年辛卯使行の正使書記洪 舜衍と江戶文士岡島璞の間に「金剛山ー富士山愚劣論争」があって、 1682年通信使行録には富士山に対して簡略に扱われ、18世紀後半には両 国文士の間に微妙な競争心理が覗かれたが、筆談を通した論争を起こした ことは稀だった。 それにも拘わらず富士山と金剛山の愚劣論争がまるで持続できに行ったよ うに解釈する研究慣行が最近まで行っていた。単純比較を愚劣論争の次元 に解釈して説明しようとしたのである。寧ろ富士山の頂上の溶けない雪が白 頭山と似ているという点を記述した通信使行録の内容を土台にして富士山と 白頭山 に関する愚劣論争があったということに拡大されていた。しかし金剛 山や白頭山が富士山の比較対象、愚劣論争の対象であったような考えるよ り、富士山を眺めながら自然に我が山川が思い出されたり、通信使行録の 慣習的書き方であると把握するのがもっと妥当であると思う。 朝鮮後期通信使は日本へ出発する前、前代の使行録の内容を理解して 既存情報を基盤として日本を認識した。それで、前代の使行録の内容が実 際の見聞との差が大きくなかったり、直接確認されなかった場合には以前の 使行録の内容をそのまま収録するようにした。しかしそれだけで終わったことで はなかった。既存使行録では扱うことができなかったり説明が足りない事物に 対しては詳細に観察して自身が把握した関連情報を抜けることなく記録した。 そのためでは前代の使行録とは区別される書き方を選択するしかなかった。そ の中の一つが日本景物を詳細に観察して描写する説明方式であった。それ から事物を描写する時には朝鮮の知識人に慣れていた事物を代入する方法 を使って読者の理解を助けようとした。また前代の使行録の誤謬が発見され るなら答ができる日本人を訪ねいて問答を交わしたり日本書籍を探して間違っ たことを直した。そして自分達の見聞を通して問題を修正し、拡充した情報に 客観性を附与するために努力した。これが朝鮮後期、通信使たちが使行録 を記録する方式であった。 このような通信使行録の書き方の方式は富士山に対して見たり聴いたりした ことを記録するときそのまま適用された。富士山を「蓮の花」ではない「釜」や「こ しき」に表現したことは、日本の景物を卑下する小中和意識の発露でないなら ただ、富士山の頂上の雪を見て白頭山を言及した両国の名山を比較して愚 劣を分けようとする意味ではなく、白頭山のように山の頂上が白色で雪が積 もっていたことを明確に表すための比有であった。一方、朝鮮後期の通信使 は前代使行録ことに異なって記録されていて論難になった富士山の高さや頂上 に積もっている雪に対した疑う心を解消するために日本文士や倭通事と問答を 交わして、これを基に既存の情報を修正したり適合な根拠をあげて、客観的に 記録しよと努力した。こんな過程を通して通信使は特定な思想や理念に埋没さ れないまま、富士山に対する単純情報を客観性を獲得した日本知識で確立し て進んだ。結局、朝鮮後期の通信使の富士山論議は日本を野蛮続だと無 視して卑下しようとする意図ではなく、外交の相対国である日本を開いた視線 から客観的で正確に認識しようとする努力の一例だと言えよう。
Japan’s representative famous mountain and guardian mountain of Edo, Mt. Fuji has been an object of attention by envoy members. The envoy members who saw Mt. Fuji themselves were arrested by the beautiful scenery and expressed their inspiration of seeing Mt. Fuji. In addition, in the process in which literary workers of two countries, Joseon and Japan exchanged written conversations and poems. They took Mt. Fuji as the topic of their poems or mentioned it. To the envoys in the late Joseon, the unique appearance of Mt. Fuji made by repeated volcanic activity and the white color caused by unmelted snow was an object of exploration. The unique atmosphere was a fairyland itself. So, the envoy members left poetry and prose expressing the beautiful scenes of Mt. Fuji, spread in front of their eyes as an enchanted land sometimes or alluding the mountains and streams of their homeland in various ways. Nevertheless, so far, it has been judged that the dispute on superiority between Joseon and Japan through the literary workers’ conversations and poems was like everything that the envoys found looking at Mt. Fuji. In addition, this study examined their views by the dichotomy whether the envoys in the late Joseon considered Mt. Fuji just a simple natural object or a fairyland. Of course, the envoys in the late Joseon were well informed of the previous records before leaving for Japan and recognized Japan based on the existing information. Thus, there are a lot of similar contents and expressions between the records in the previous generation and those in the later generation. Yet, there was more than that. To understand the aspects of Japan, different from Joseon, Japanese words were conceptualized for Joseon, and the natural features of the season in Japan was described, but they were expressed, alluding to objects familiar to Joseon intellectuals. Also, if an error was found in the records in the previous generation, they corrected it by asking questions with Japanese persons who could answer them or looking up Japanese books. In addition, they corrected it through their experience and tried to give objectivity to the expanded information. This was the way in which the envoys in the envoys in the late Joseon wrote the records. In addition, the way of writing of Records by the Envoys to Japan was also applied to recording what they saw and heard about Mt. Fuji as they were. Expressing Mt. Fuji not as ‘lotus’ but ‘caldron’ or ‘steamer’ was not small Sinocentrism that depreciate the scenery of the season in Japan but just a way of delivering the shape better to the people who did not see Mt. Fuji. In the same context, Mt. Baekdu was mentioned after they looked at the snow on the summit of Mt. Fuji was not intended to contend for superiority by comparing celebrated mountains of the two countries but a figure of speech to clearly reveal the fact that the summit is white, where show is accumulated like Mt. Baekdu. In the meantime, the envoys in the late Joseon dynasty exchanged questions and answers with Japanese literary workers or interpreters in order to resolve the suspicion concerning the height of Mt. Fuji or snow in the summit, which is differently recorded by each previous record by the envoys and tried to record objectively, correcting the existing information or taking an appropriate reason based on that. Through this process, the envoys established simple information about Mt. Fuji into knowledge about Japan they obtained objectivity, while they were not trapped in a certain thought or ideology. Consequently, the discussion about Mt. Fuji of the envoys in the late Joseon dynasty was not an intention to ignore or look down on Japan as barbarian but a part of an effort to recognize it as a diplomatic partner objectively and accurately from an open perspective.